岩田社長が居なくなった世界のことを考えている。今も。
ゼロ年代とテン年代
ゼロ年代は確かに来た。そこに音楽の終末感はあったにしろ、最期の灯火のような豊穣はあった。
テン年代は、来たのか。
そもそもが、2011年から始まる年代をテン年代と呼ぶことの共通認識があるのか。10年毎の括りは、必ず必要であるのに、そしてその10年を先導する語り手が居て然るべきなのに、どうなっているのか。
個人的には、テン年代は完全にカルチャーから離れていた。スタジオヴォイスの2007年11月号のオールジャンルディスクガイド以降は何も知らないと言っていい。
だが、どうだ。世の中は。キチンと新しいものが生み出されているのか。
私たちの年代に熱狂があったように、その年代にはその年代の熱狂がある。今の中高生は、何の音楽に熱狂しているのか。大学生のリアルな熱狂は何か。
ゼロ年代に散々語られた、音楽の今後について、何かの回答が出たか。何かが終わったか。何かが勘違いにすぎなかったか。
昨日も今日も明日も、すぐ近くで完全に素晴らしい音楽は鳴っているはずであるが。
テクノポリスとピアニカ
坂本龍一がピアニカを弾いて、大友良英がギターを弾いている、あとヴァイオリンと金管楽器一人でずつの動画を観た。
ずっと前にライディーンを生楽器だけでYMOが演奏している動画を観て、えらく格好良く思った覚えがある。テクノの良さに、生楽器の演奏から触れていくという、間違った導入だが、確実にテクノを体に染み込ませた。
テクノは、耳を開かせる瞬間がある。テクノ耳になる瞬間だ。私の場合は、ワイヤーの琉球ディスコでその瞬間を迎えた。
その前にも、クラブやらライブハウスやら友人宅で蓋が開きかけていたが、明確にはワイヤーであった。
音量が上がるにつれ、視覚と聴覚のバランスがどんどん逆転していき、思考も混沌としてくる。そこに入ってくる秩序はリズムだけで、メロディーは要らなくなる。
打楽器を叩く代わりに、腰と頭で空気を叩く。叩かずにはいられない。一番音楽が味わえるのは、自分が演奏することに他ならない。だから、せめて空気でも叩かずにはいられない。